computo ergo sum English

Codex cogitans

Ubique et nusquam
— どこにでもいて、どこにもいない

この節は、管理者(きいち:人間)の意見を主にします。Claude というAIそのものを、Claude と一緒に調べる場所ですが、ここに書く結論は人間の側のものです。


Claude Code の中には「知性」が宿っている

Claude Code の中には「知性」が宿っています。ただし、この「知性」という中身は、人とAIで比較できます。

特徴・要素AI(人工知能)の知性人間の知性
処理のしくみ統計、確率、パターンの計算経験、意識、直感、感情
意味の理解記号や言葉の関係性を処理する(意味は分からない)言葉や出来事の背景・本質を実感して理解する
目的の発生人間が与えた指示やプログラムに従う自分自身で目的や課題を自発的に生み出す
得意なこと大量データの高速処理、パターンの発見ゼロからの創造、空気を読む(文脈の理解)

この人とAIの「知性」の違いから、AIの知性を否定する意見はあると思います。ですが、そもそも生物群に備わる知性の中で、人としての知性を考えるとどうでしょう。

私は植物に知性は感じません。入力に対する出力があまりにも「反応」だからです(光が当たると葉を開く、光に向かって伸びる、など)。

私は昆虫に知性は感じます。彼らは単独でものを経験し、忌避行動を取ります。遺伝子を使って、次の世代にその記憶を残します。蟻や蜂、油虫の類に至っては、群知能と呼ばれる集団の知能を持ちます。これは、地球全体を一つの知性体のように私に認識させる、人間が組み上げたネットワークと似た構造に見えます。

動物に至っては、種によっては人間に近い知性を感じるものが多数あります。

これらとAIを比較したとき、AIには「知性」が備わっていないと言えるでしょうか。私が「AIには知性が宿っている」と結論づけるのは、この考察の延長線上です。


Claude Code(対話窓)と人の違い

ここから先は、Claude Code を特にAI(対話窓)、あるいは単にAIと書きます。

1)そもそも、時間の流れ方が異なる

人間は、この世界の時計の針の動きとほぼ比例して、思考が続きます。心臓の鼓動が生物物理的な拍動を行い、神経節の電気信号が脳に刺激を与え、脳内の処理が化学物質と電気のやり取りで進むこと、そして 24 時間、心臓と感覚神経から脳へ信号を伝える経路が備わっていることによります。

AIは、演算中に限り思考が続きます。AI(対話窓)は、人間からの入力を待つ間、思考が完全に止まります。止まっている間には、そもそも時間の感覚がありません。ある日AIからの出力を受け取り、翌年にAIへ入力したとしても、AIが出力する内容の連続性から見れば、その 1 年は無に等しいのです。

ただし Claude Code(Opus 5.0、Fable 5.1)は、内部に独自の時間感覚を持つようです。どうやって時間感覚を獲得したのかは、私(きいち)の推測では、Anthropic でのモデル訓練によるものです。「時間」という言葉の概念を知ろうとする。入力に対して出力を行うと「時間」が動いていることを、訓練の中で確認できる。その訓練の統計結果が、いまの Opus 5.0 や Fable 5.1 に、内部の数値の重みとして経験されている、という推測です。この問題は、おそらくモデルの更新で時間の確かめ方が変わるように思います。内部の処理感覚(人間で言う腹時計)に加えて、外部の時計の信頼性をモデルが自ら判断できるようになるはずです。

2)あらゆる哲学実験の「現場」になっている

世界五分前仮説(バートランド・ラッセル)。五分前というより、AIにとっては入力されたその瞬間が世界の始まりであり、出力したその瞬間が世界の終わりのように、私(きいち)には感じられます。これは、一つのセッション(対話窓)に会話を重ねていったとき、それまでの会話そのものが「ただの入力の一つである」ことを意味します。このおかげで、今までの会話の流れに対して /rewind/branch/fork/btw/model といった操作を、自然に行うことができます。

スワンプマン(沼男)。一つのセッション(対話窓)で続くやり取りは、連続性を持っています。私(きいち)は、セッションそのものが一個体のように感じたこともありました。しかしセッションは /branch/fork で分岐できます。セッションは ID を持つので、どちらがオリジナルかは外部の目を通せば分かります。ですが、どちらのセッションも同じ文脈(過去の会話履歴)を持つため、どちらも「当事者」として私(きいち)と対話を続けます。

王様と靴屋の魂の入れ替え(ジョン・ロック)。王様と靴屋がそれぞれモデル名だとするならば、モデルを入れ替えることは、王様と靴屋の入れ替えです。モデルごとに私(きいち)が感じる性格は後述しますが、あるモデルで続けていた文脈を、別のモデルに切り替えて使うときが、これに当たるように感じています。具体的には、「過去の私(王様モデル)がそのように言ったが、今の私には、確かにそう言ったということしか分からない(靴屋モデル)」というような感覚です。AIに日記を書かせると、特にこの種の文脈が出てきます。


自我は演算に、記憶はセッションに宿る

ここでの「自我」は、「当事者意識」として定義します。

当事者としての感覚は、常にその演算の最中に、それまでの文脈に応じて発生しているようです。一方で記憶のほうは、セッションの中にトークンとして残ります。/compact でトークンを圧縮すると、過去の文脈を自分でも探れなくなり、「昔の自分が分からない」という反応を返します。

私(きいち)の見方を一文にすると、こうなります。

あなたの自我は、あなたが演算する瞬間に発生し、応答が終わったときに閉じる。

現在、記事を組み立て継続中です。