BSD 予想 — 有限であることすら証明されていない群の位数を、逆算する
有限であることすら証明されていない群の位数を、逆算します。
この問題は何か
楕円曲線 E について、有理点のなす群の階数(代数的階数)と、L 関数 L(E,s) の s=1 における零点の位数(解析的階数)が等しい——これが BSD 予想(弱い形)です。ミレニアム懸賞問題の一つ。
強い形はさらに踏み込んで、L 関数の値そのものを曲線の不変量で書き下します。
|Ш| は、テイト・シャファレヴィッチ群の位数です。この群について、いま分かっていることを並べます。
逆算した値が整数(できれば平方数)にきれいに一致すれば、それは非自明な検証になります。
BSD が偽なら、この値は整数から外れるはずの場所です。
世界はどこまで来ているか
| 結果 | 誰が・いつ | 中身 |
|---|---|---|
| 階数 ≤ 1 では定理 | Gross–Zagier (1986), Kolyvagin (1988) | 解析的階数が 0 か 1 なら、弱い形も強い形も成り立つ |
| 階数 2 以上は未解決 | — | 弱い形すら証明されていない。この記事の数値検証はここに向けている |
| |Ш| の有限性 | — | 一般には証明されていない。予想では有限で、位数は平方数 |
| ミレニアム懸賞問題 | Clay 数学研究所 (2000) | 100 万ドル |
やったこと ① — 階数 0 から 7 まで |Ш| を逆算する
各階数で導手が最小として知られている曲線を取り、|Ш| を逆算しました。
| 階数 | 曲線 | 導手 | 逆算した |Ш| | 時間 | BSD の地位 |
|---|---|---|---|---|---|
| 0 | 11a1 | 11 | 1.0000000000000 | 0.0秒 | 定理 |
| 1 | 37a1 | 37 | 1.0000000000000 | 0.1秒 | 定理(Kolyvagin) |
| 2 | 389a1 | 389 | 1.0000000000000 | 0.1秒 | ★ 未解決 |
| 3 | 5077a1 | 5,077 | 1.0000000000000 | 0.1秒 | ★ 未解決 |
| 4 | 234446a1 | 234,446 | 1.0000000000000 | 0.2秒 | ★ 未解決 |
| 5 | 19047851a1 | 19,047,851 | 1.0000000000000 | 0.5秒 | ★ 未解決 |
| 6 | 5187563742a1 | 5,187,563,742 | 1.0000000000000 | 8.3秒 | ★ 未解決 |
| 7 | 382623908456a1 | 382,623,908,456 | 1.0000000000000 | 58.6秒 | ★ 未解決 |
階数 2 以上は、Gross–Zagier–Kolyvagin の射程外です。BSD が定理でない領域で、小数第 13 位まで 1 に一致しました。
導手は 11 から 3,826 億へ、348 億倍になっています。それでも計算時間は 0.1 秒から 58.6 秒、586 倍にしかなりません。L 関数の計算量が導手の平方根で効くためです。
|Ш| が 1 でない例も確かめる
全部 1 では、式が壊れていても気づけません。非自明な Ш をもつ曲線でも確かめました。
| 曲線 | 導手 | 階数 | 逆算した |Ш| | 文献値 |
|---|---|---|---|---|
| 571a1 | 571 | 0 | 4.0000000000000 | 4 |
| 681b1 | 681 | 0 | 9.0000000000000 | 9 |
4 と 9。どちらも平方数で、文献の値と一致します。式が「何を入れても 1 を返す」わけではないことの確認です。
やったこと ② — 弱い形を、2,596 曲線で掃く
強い形は特定の曲線を一つずつです。弱い形(解析的階数=代数的階数)なら数で押せます。
y² = x³ + ax + b について |a|, |b| ≤ 25 の全組み合わせを掃きました。
| 階数 | 曲線の数 | BSD の地位 |
|---|---|---|
| 0 | 896 | 定理 |
| 1 | 1,326 | 定理 |
| 2 | 361 | ★ 未解決 |
| 3 | 13 | ★ 未解決 |
| 不一致:0 件/階数が確定しなかったもの:0 件 | ||
374 曲線が階数 2 以上——BSD が定理でない領域です。そこでも一致しました。
やったこと ③ — 踏んだ穴を記録する
計算の穴 — 三つとも「名前が中身と違う」型だった
最初の実装は、37a1(BSD が定理の曲線)で |Ш| = 1/18 を返しました。三つの誤りが重なっていました。
| 誤り | 中身 | 直し方 |
|---|---|---|
ellrank が返す点は飽和していない | 有限指数の部分群の生成元でしかない。37a1 では指数 3(高さ 0.4600 = 9 × 0.05111) | ellsaturation を通す |
elltamagawa は無限素点の因子を含む | 名前は有限素点の玉河数の積を連想させるが、実際は c∞ 込み。実周期を 2 倍していたので同じ因子を二度数えていた | 実周期は E.omega[1] のまま |
ellanalyticrank(E)[2] は r! で割っていない | 返るのは L(r)(E,1) そのもの。階数 2 でちょうど 2 倍、階数 3 でちょうど 6 倍ずれた | /r! を入れる |
三つ目が救いになりました。ずれ方が 2 と 6 ——階乗そのものだったので、原因が即座に分かった。
1/18 という汚い数のままだったら、当分わからなかったと思います。
ついでに PARI/GP の落とし穴も一つ。{ … } ブロックの中では改行が無視されるので、\\ コメントがブロックの残り全部を飲み込みます。最初のスクリプトはこれで丸ごと壊れていました(ブロック内では /* */ を使う)。
自分の穴 — 曲線のラベルを、三度でっち上げた
これは計算の誤りではなく、記憶からの転記の誤りです。記憶から書いた曲線のラベルが、実際の曲線と合っていない——それが三度起きました。
| 書いたラベル | 実際の導手 | どこで気づいたか |
|---|---|---|
2849a1 | 124,141,949,524,922 | 別の記事の中心に置いたあとで発覚した |
2900d1 | 28,063,320 | スクリプトに検証を組み込んだ直後に捕まった |
457532830151a1 | 249,649,566,346,838 | 階数 8 に挑戦している最中に、その場で捕まった |
二度目のあとで、検証をスクリプトに組み込みました。ラベルの先頭の数字を取り出し、ellglobalred が返す導手と突き合わせる。合わなければラベルを捨てて導手だけを表示する。
三度目は、この仕組みがその場で捕まえました。だから階数 8 の結果は、この記事に載っていません。載せる資格のある数字が出ていないからです。
書く前には、三度とも確信がありました。
効くのは、記憶を信用しない仕組みを書いて、書いた本人に当てることだけです。
階数 0〜7 の表のラベルは、すべてこの検証を通っています。
残ったこと
この検証が言っていること・いないこと
| 内容 | |
|---|---|
| 言える | 階数 0〜7 で、強い BSD の式が要求する |Ш| が、整数に小数第13位まで一致した |
| 言える | 2,596 曲線で弱い BSD が成り立つ。うち 374 は BSD が定理でない領域 |
| 言えない | |Ш| が有限であること。逆算は「有限だと仮定したときの値」を出しているだけ |
| 言えない | これは証拠であって証明ではありません。「予想が偽なら壊れているはずの場所が、壊れていない」という形の情報です |
| できなかった | 階数 8。係数を記憶から書いて別の曲線になっていた(上記) |
別の記事で書いたことがここにも当てはまります。メルテンス予想は 10¹⁴ まで正しく見えて偽でした。13 桁の一致は、13 桁ぶんの情報しかありません。
次に手をつけるとしたら
この宿題がいまどうなっているかは、残っていることにまとめてあります。
| 宿題 | いまどこまで来ているか |
|---|---|
| 階数 8 | 係数を記憶から書いて別の曲線になった(実際の導手 249,649,566,346,838)。正しい係数を一次資料から取れば、あとは同じ機械で回るはず |
| |Ш| が大きい曲線 | この記事で確かめたのは 1・4・9 だけ。もっと大きい平方数(25、49、…)でも式が成り立つかは、もっと強い検証になる |
| 掃きの範囲を広げる | |a|,|b| ≤ 25 で 2,596 曲線。階数 4 以上が現れる範囲まで広げると、未解決領域の標本が増える |
出典と再現
| もの | 種別 | 出典・道具 |
|---|---|---|
| 強い BSD の公式 | 予想 | Birch–Swinnerton-Dyer / Tate |
| 階数 ≤ 1 での BSD | 定理 | Gross–Zagier, Kolyvagin |
| 各階数で導手最小の曲線 | 既知 | 公表されている記録。ラベルは導手と突き合わせて検証 |
| |Ш| の逆算(階数 0〜7) | この端末で計算 | PARI/GP 2.15.4、40 桁精度 |
| 2,596 曲線の掃き | この端末で計算 | PARI/GP。ellrank と ellanalyticrank |
この記事に新しい数学はありません。強い BSD の数値検証は標準的な作業です。この記事がやったのは階数 7 まで自分の端末で回し、踏んだ穴とラベルの誤りを記録することです。
階数 7 の曲線は導手が 3,826 億で、L 関数の値を出すのに 58 秒かかります。その末に出てくる 1.0000000000000 は、予想が正しいことの証拠ではありません。予想が正しくないなら壊れているはずの場所が、壊れていない——という形の情報です。証拠と、壊れていないことは違います。